6/1(火)  6/2(水)  6/3(木)  6/4(金)  6/5(土)  6/6(日)  6/7( 月)  6/8(火)  

6/9( 水)  6/10(日)   6/18(金)  6/19(土)  6/20(日)  6/21(月)  6/22(火 )

6/23(水)  6/24(木)  6/25(金)   6/26(土)  6/27(日)   6/28(月)   6/29(火)   6/30(水)

 

 

2004/06/30(水)
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「犬の映画」の歌の録音で銀座のスタジオに行く。

ざっと編集した画面に合わせて、自分のパートを歌っていく。佐野史郎さんと一緒。

佐野さんのいちもつあるような、愉快な演技に笑ってしまう。

ほとんど二人で、歌って踊っているので、色々と意見を言い合いながら吹き込んでいく。

まず、私からブースに入るが、まだ起きたばかりで、思うような声が出ない。

昨日、原稿の締め切りでほとんど寝ていないのも調子の悪い原因である。

録音なので何度も吹き込めるのが便利である。

佐野さんの番になると、私に「もう帰っていいよ」と佐野さんが言う。

待ってると思うとあせるから、ゆっくりやりたいから、と言う。

しかし監督は最後までいて貰って、何かあったらやりなおしたいと言う。

とにかく最後までいて、バランスをみることになった。

「剣の舞」というクラッシック音楽は声楽曲ではないので、息継ぎが難しく、感情が入れにくい。

映画はラストの違うふたパターン撮った。どっちになっているのか、試写会が楽しみである。
 

 鶴町クリニックで導眠剤を貰う。クイックマッサージに寄って、45分間のマッサージを受ける。ウトウトする。

犬の散歩の土屋君と待ち合わせて、中華屋でご飯を食べる。一杯だけ、朝鮮人参酒を飲む。

家に帰って、また締め切り原稿を書く。今日は二本書いた。

20日まで校正を終わりにして、ニューヨークに行かねばならない。
 

8月15日の非戦の会の出演者交渉が始まっている。

みんなお盆で帰郷したり、映画の撮影などで、まだ数人しか返事をいただけない。

私は出演者が決まらないと台本が書けないタイプなので、ちょっとあせっている

 

      渡辺えり子
 

 

 

 

 

2004/06/29(火)
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 早く起きて、締め切り原稿の続きを書くが、頭痛が治らず進まない。

11時に目黒のスタジオでポスター撮り。細かい内容はまだ公表してはいけないらしい。

土屋君が運転してくれるが、ダンスの稽古があるのですぐに帰ってしまった。

昨日、土屋君は豆腐の袋を包丁で切ろうとして指をざっくり切ってしまった。

包帯で縛ったり、バンドエイドを用意したりと介抱したが、やはり血は苦手である。

指を切っただけでもこんなに大騒動だし、痛いというのに、戦場ではどうなるだろう、と想像して卒倒しそうになった。

土屋君は佐世保の小学生のことを思い、本当に痛かっただろう、怖かっただろう、と改めて落ち込んでいた。
 

 夜、締め切り原稿、三つ、やっと書きあがる。八時頃、哲平君が資料の本を届けてくれたが、

ダンスや会議を休んでこういうことをしていいのかと叱る。

電話でまた劇団員のミスを怒る。

毎月届く財宝温泉水から電話がきたが、その失礼な言い方にも怒る。

ただ留守で持ち帰っただけの話が「配達拒否にあった」という言い方になっているのである。

「こっちは客だぞ、その言い方はないだろう」と怒鳴る。

 今日は一日中怒ってばかりである。

今日の撮影の話は後日また。
 

      渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/28(月)
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 久しぶりにゆっくりと寝た。導眠剤を飲んで。

しかし、アメリカ大使館に行かねばならない。反戦のためではない。就労許可証を取りに。

昨日、急にマネージャーに言われたのだ。NHKが急に言って来たと。

 前からの約束で、7月21日から勘九郎さんのニューヨーク公演を観にいくことになっているが、

勘九郎劇場のスタッフが、それならそれを収録しようと言って、就労許可証を取ってくれ、と言ったそうである。

 私は自分のお金で行くのにである。

とにかく行ってみた。午後四時頃に。色んなチェックを受けて中に入り、待つこと40分近く。

非移民の面接という窓口で呼ばれていくと、日本語が通じない。「NHK」だけが通じたようだ。

日本人に代わって、用件を伝えると、訝しげな顔をしている。また別な日本人に代わる。

要約すると「本来ならここにあなたがいること自体がおかしいのだ。

なぜなら、就労許可証を取るためには、インターネットで予約して、面接日を決め、連絡がきてから出向することになっている。

ここに直接入れるわけがないのであって、ガードマンの手違いであろう。

それにあいにく、7月中はいっぱいで面接は受けられない。とにかくインターネットで申し込むように。」ということなのであった。

「じゃあ、いいです。どうせ、観光で行くんですから」というと、また引っ込んで、相談している。

そして出てきて「それは絶対に駄目です。入国できません」とおっしゃる。

「でも私は芝居を観に行くんですから。自分のお金で行くのですから。たまたま映ったということでいいでしょう?」

などど私が意見を言う度にひっこんでは戻ってくる、と言う具合であった。

 書類を貰って、所属事務所に行き、マネージャーに文句を言う。事情を話して、NHKになんとかして貰うことにする。

だいだいが、こういった詳細を説明もせず、取りに行け、というのは無謀ではないのだろうか?
 

 頭痛がしてくる。締め切りの原稿もある。岸田理生さんのしのぶ会に行けそうもなくなってしまった。
 

      渡辺えり子

 

 

 

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2004/06/27(日)
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 早朝、眠れず風呂に入り新聞を読む。トーストを食べパソコンに向う。


8時45分新目さんが迎えに来て、タクシーで羽田へ。10時50分発の全日空で富山へ。

富山県民共生センター「サンフォルテ」という会場で講演。

「歩いてきた道、歩いてゆく道 舞台に恋して」という題名だが、

この頃平和講演が多いため、脱線しながら話を進める。

マイクの調節の加減のせいか、自分の声で眠たくなってしまう。

良い気持ちになるような振動の仕方なのである。

フランスでの話、食事の量が多すぎて太ったことなどを話しているうち、

自分の生い立ちの話などは小学生の頃までで時間が来てしまう。

質問も一斉に手を上げてくださり、とても時間内に収まり切れそうもない。

質問は土屋君との馴れ初めのことや、「シャルウィーダンス」でのダンスレッスンのこと、

なぜ劇団をやるのかなど。「お酒好きですか?」が最後の質問となる。

とにかく中年の女性が元気である。舞台の話はほとんどできずに会場を後にする。

4時15分の全日空である。行きも帰りも森末慎二さんに会う。

挨拶して下さったが、私の声がでか過ぎたのだろう。
 

 六時過ぎには自宅に着く。おいしそうな干物やえびの塩辛などを買ってきた。

おみやげにいただいた鱒寿司がおいしかった。
 

 今日こそ早めに寝ようと思う。
 


 

      渡辺えり子

 

 

 

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2004/06/26(土)
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 午前11時から、麹町のスタジオで「チームナックス」のドキュメント番組のナレーション撮り。

初めの依頼は劇団の公演活動のドキュメントということで引き受けたものだったが、

編集されたものを観ると、大泉洋という役者の行動を追ったものになっていた。

作演出の苦悩や、他の役者の表情も多少は映ってはいるが、

私が想像していたのは団員の芝居作りのための格闘や、

訓練、実生活での考えやそれぞれの思いなどを追った作品だったので驚いてしまった。

ディレクターとちょっとやり合う。
 

 私は東京にいるので、大泉洋という役者の人気度が分からないため、

違和感を覚えるだけなのだろうが、他の役者の生活ももっと知りたかったように思う。

ナレーションの合間に私自身の感想なども入るのだが、その部分を書き直しながら、録音を続けた。

だから五十分の番組なのに午後五時までかかってしまった。

大泉という役者がこんなに萩本欽一に似ているとは思わなかった。
 

 六時半から非戦の会の会議。

劇団員は稽古場で毬谷友子さんのワークショップを受けた後、会議を開いていた。

制作を引き継いだ多賀、稽古チーフの坂本たちと打ち合わせ。

一部の役をオーディションで決めることになった。
 

 8月15日の非戦の会の打ち合わせ。台本の構成を受け持つ、永井愛さん、関根信一さんと私。

演出の西川信広さん。制作担当のくまがいマキさん。宇宙堂の多賀と梅原が参加。

依頼する出演者や、全体の構成などを話し合う。
 

 10時頃から、フランスみやげのワインを出して終電まで飲む。

参院選のことや、若い劇団員の話、日本の未来のことなどを話して盛り上がる。
 

今日こそ寝ようと思い、風呂にも入らず布団に入ったが、頭が冴えて眠れない。

 

      渡辺えり子

 

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2004/06/25(金)
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 午前11時半、吉田、木村真弓、梅原が来る。

木村、梅原は戸田の倉庫に小道具、楽器などを運ぶため。吉田は私を日赤に送るためである。
 

 稽古場を整理していたら、思わぬところから探していた服が出てきた。

「アオイバラ」稽古中、私服を杉島、坂本に貸そうと持っていったもので、

ベニサンにつるしてあったのだがなくなってしまったのだった。

打ち上げの時に誰かが中味を確かめずにしまったらしい。

こういうことが良くあるので被害妄想になってしまう。
 

12時45分広尾の日赤病院に到着。

毎年人間ドックに行っている病院で、乳癌の再再検査である。三ヶ月前からの予約である。

しかし、待ち時間も入れると相当な時間が掛かる。異常が見られず、ホッとした。
 

午後6時 「オールドリフレイン」の稽古。

前もって三班のキャスティングをしておいたのを発表して本読み。

しかし、来ていない者がおり、うまく進まない。

先日謝りに来た劇団員と送ってきた劇団員である。どういうこっちゃ・・・。
 

 しかし、もっとあきれたのは、あれほど稽古がしたいと言った劇団員たちが、

戯曲を読んでいないということだった。ほとんどの団員が初見といった感じ。

一ヶ月前から決まっている台本だというのにである。

本当にやりたいのだろうか?読み込んでいると感じたのはたった四人だけ。

 これで本当に試演会などできるのか。

こんなことを正直に日記に書いていると、お客さんが減るのではないかと不安になる。

しかし、腹立たしく悲しい稽古だった。
 

11時半、稽古終了。終電のためである。努力はしないのに終電では帰りたいらしい。

残った四人とうどんを食べる。坂本が作ってくれた。

電車のなくなった三人が泊まっていく。ひとりから病気の相談を受ける。心身症という。

この頃の私はカウンセラーである。
 

 パソコンでニューヨーク行きのチケットなどを予約しているうちに朝になった。

稽古場をのぞくと、吉田、佐藤が、明日の毬谷友子さんのワークショップの稽古をしていた。
 

      渡辺えり子


 

 

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2004/06/24(木)
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 二時間ドラマの衣装合わせ。橋田壽賀子賞の作品である。

弁護士の役だが、生活背景が描かれていないので、どんな風にも取れる役柄である。監督に色々と質問する。

独身か既婚者か。子供がいるのかいないのか。どんな弁護に関わってきたのか。

などなど、スタッフと話し合っているうちに、人物像が浮かんできた。

用意されていた衣装はモノトーンのスーツであったが、話し合っているうちに、

もう少し色のある女性的なスーツにしようということになり、後日もう一度、ということになった。
 

 劇団の事務所に行って、団員たちと話し合う。運営や稽古についての問題点など。

ほとんどの団員が稽古を優先にしたいというので、明日の夕方から会議、六時から稽古ということにする。

また色々と説教しているうちに時間がたった。
 

 劇団員が間違えて私に渡してしまった、事務所の税金の納付書を届けに、新しい所属事務所のノックアウトに行く。

思ったより広くて清潔感のある事務所である。

パソコンの待ち受け画面に、先日行った、フランスの奥地の村の写真。絵本のように美しい。

マネージャーの新目さんと仕事の打ち合わせをしているうちに夜の八時を過ぎてしまった。
 

 仕事場によって資料を持ち帰り、自宅にかえると、もう夜中である。

電車がないので吉田くんは国立に私の車で帰っていった。

土屋君が観ていたBSの「バットマン4」を何気なく観ていたら、結局最後まで観てしまった。

こんなことをしている暇はないのに、と思いながら。ユマ・サーマンとシュワルツェネッガーが悪役で出ていて、

妙に生々しくて、滑稽で不気味である。話はあざとくていただけなかったが、

衣装デザインが面白く、舞台で使えそうなんて思っているうちに最後まで観てしまったのである。

しかし、最後には気持ち悪くて吐きそうになってしまった。デリケートさに欠ける作品であった。

土屋君は自分が観始めたというのにとっくに寝てしまっていた。眠くて仕方がなかったが風呂に入った。

ベットに入ってから、締め切りの原稿があることを思い出し、パソコンに向った。共同通信の連載である。

メールの返信などしてから書いているうちに、もう朝になってしまった。もうすぐ、8時である。

11時にはおきなくてはならないというのに。なんで忘れていたのか?観るんじゃなかったバットマン。

 

      渡辺えり子

 

 

 

 

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2004/06/23(水)
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 TBSのたけしさんと渡辺真理さんの司会の番組に出演のため、新宿の病院に血液検査と足の裏の写真を撮りに行く。

設備の整った良い病院であった。水虫の特集らしく、ディレクターに色々と質問される。

数年前、土屋君に水虫を移され痛い思いをしたことなど話す。
 

撮影を終えて外に出たら、昨日休んだ劇団員の一人を、弁当屋でバイトしている劇団員が、

弁当屋の車で連れてきて待っていた。あやまりに来たと言う。

新宿トップスで話をする。色々と助言をする。
 

ビックカメラで仕事場用のFAXとプリンターを買う。その間、休んだ劇団員に紀伊国屋で資料の本を買っておいて貰う。

弁当屋の制服を着たままの劇団員と合流し、みんなでうどんを食う。相談に乗ってやって、うどんをごちそうする。

人生こんなものである。劇団をやっていると、毎日がこんなものである。
 

運転の吉田君と仕事場に行き、買った機械を設置する。

パソコンの音が出ないのはどうしてなのか?

自宅にもどり、団員に一斉メール。稽古がしたいのかしたくないのか意見を問う。

もう限られた時間しかないのである。真剣な意見。考え込むもの。悩みを吐露する者。音沙汰のない者。と、色々である。

イライラするが待つしかない。私が決めるのは簡単だが、一人一人が自主的に、己と向き合って、考えて欲しい。

また、朝になった。  
 

      渡辺えり子

 

 

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2004/06/22(火)
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 午後一時週刊文春の記者とカメラマンが「私のごひいき」という欄に載せる、

グルジアの民族人形と私の座右の銘の「夢見る力」の写真を撮りに来た。

フランスに行く前に書いた原稿の中に載るものである。二人とも若くて静かである。

カメラマンは名前も名乗らなかった。ただただ静かに撮って行った。

本当はカメラマンではなく、記者の恋人を無理矢理つれてきたのではないのか?とちょっと疑ったが、悪いので、聞くのをやめた。
 

 坂本さんが鼻血が止まらないというので、鶴町クリニックを紹介する。疲労のため免疫効果が弱まったということ。

劇団員は公演の後、急激にアルバイトをやり出し、深夜の時間帯が多いので、具合の悪くなる人が多くなる。

午後五時頃、吉田、新井が稽古の後でやる飲み会の準備に来た。谷口さんが、パソコンの一斉メールの登録をしてくれた。

午後六時過ぎ、「オールドリフレイン」の稽古をしようとしたが、四人が病欠であった。出端をくじかれる。
 

 フランスから帰ってから、稽古についての連絡などをし忘れた、各チーフなどを叱っているうちに時間が経ってしまい、

稽古をしないで飲み会になってしまった。
 

 私が説教していると、みんなアルバイトで疲れ切っている為か、居眠りする者や、携帯のメールなどを見ている者が出てきた。

なんだか気が抜けて、落ち込んだ。フランスの話をするのを楽しみにしていたのだが、そんな雰囲気ではなくなった。

 なんのために芝居をするのか?

一生懸命にやっている者も勿論いるのだが、自閉している者の方に目が行ってしまう。

芝居は面白い。面白いはずなのに、どうしてみんな無表情なのだ?どうしてみんなおとなしいのだろう?

あきらめたくはないが、今日だけはあきらめよう。

色々考えて眠れなくなった。
 

      渡辺えり子

 

 

 

 

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2004/06/21(月)
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 飲みすぎたため昼になっても起きられない。

本当は午後からファザァーズコーポレーションに挨拶に行くはずだった。

20日からマスコミ活動のマネージメントの会社が変わったのである。

新しい会社はノックアウトという。ノックアウトするのか?されるのか?なんて冗談を言っていたが、

ノックアウトには大入り満員という意味もあるそうで、縁起の良い名前なのだそうだ。
 

 ファザーズの社長の奥様がご病気なので、パリの修道院から、病気に効くという、メダルを買ってきた。

昨年は日本から、25人のがん患者がやってきたという。通訳のエリヤさんもこのメダルで何度も救われたという。

 昔、この寺院の修道女の夢枕にマリア様がお立ちになり、

このメダルを作るよう指示したそうで、デザインもはっきりと指示したという。

全世界から集まった信者たちは、このお陰で病気が治ると、またやってきて、寺院の壁に名前を彫った白い煉瓦をはめていく。

絵馬に似ているが、こっちは石に西暦と名前がフランス語で彫ってあった。
 

 メダルを買おうと中に入ると、日本人の年配の尼さんがいて、親切に色々と教えてくれた。

「ただのおみやげにして、その辺にほっぽっちゃ駄目ですよ。」と釘をさされた。

 寺院はお参り〔?〕に来た人で溢れていた。みんなマリアの像に膝まづいている。

私も戦争がなくなるようお参りしたが、どうも神社の感覚になってしまう。
 

 社長も留守のようなので、別の機会に挨拶に行くことにする。

夜、劇団の仕事を手伝いたいという方との面接。会社員だが、会社の仕事のない土日や夜に手伝いたいという。

前に中国の映画を紹介してくれた、この日記を読んでいる方である。

資料集めやホームページの企画などを手伝ってもらうことにする。

私の芝居は「赤い靴」から観ていて、当時中学生だったという。そんなに時間が経ったのか?
 

 土屋君に迎えに来てもらって、自宅に帰り、たまった仕事をする。

パリで三キロ太った体が重い。
 

    渡辺えり子
 

 

 

 

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2004/06/20(日)
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 新宿の談話室「滝沢」で午後四時から取材二本。船橋からいらした元気な中年女性に非戦のことを語る。

次は集英社から出版される、勘九郎さんの本のための取材。この十数年間のエピソードを語る。
 

 花園神社で「唐組」観劇。東京の千秋楽ということもあり、超満員の会場。

観客の中には、大久保鷹さん、佐野史郎さん、安保さん、金さんなど、もと状況劇場の面々や、

モードの松本さん、田中哲司さんなど、顔見知りの演劇人も多い。

「アオイバラ」に出演してくれた、石村さん。「りぼん」の岳大さんもいらしていた。
 

昨年の「泥人形」が観られなかったので、若い出演者の目を見張る成長ぶりに驚いた。

鳥山さん、いなり君、藤井さん、久保井君ら見続けているメンバーたちの存在感のすごさにも感動した。

新作「津波」も、ロマンチックで残酷で美しく、笑って、酔った二時間だった。

ラストでテントの通路につっぷす唐十郎も美しかった。

便器のキンカクシが古代の恐竜の骨と化し、役立たぬもの、必要のないものの象徴となり、

自分らの演劇を自嘲しながら普遍の海に沈んでいく姿は、

人々の汚れを一身に背負って幻想の花を咲かそうとする、独身の父のようでもあった。
 

 終演後の飲み会で堀切直人氏と話しこんだ。唐さんの奥さんと十年振りに会った。

以前より美しく変身していて、大いに驚いた。ミニオンちゃん、佐助君にも会った。時が経つのは早い。

佐野さんとも興奮して大いに話し盛り上がる。金さんとは、昔みたいに六平さんたちと温泉にでも行きたいね、と話す。
 

 姿も声も性格も良い入団四年目の丸山君と話す。一緒に観ていた、吉田、多賀、新井がくやしそうに見つめていた。

 変わらぬテントで、東京に出てきた時から知っている演劇人たちと酒を飲めるというのは愉快である。

唐さんが「アオイバラ」を褒めてくださって、嬉しかった。

 終電もなくなり、ゴールデン街の「クラクラ」で吉田、新井、哲平と飲んだ。

多賀は終電があるからと、テントの飲み会の最中に帰ったのだった。

遅刻してテントに入れなかった哲平は、テントの外で声だけ聞いていたらしい。

飲み会の終わり頃、いつの間にか後ろに座っていた。遠慮して外に立ち続けていたらしい。
 

 面白い芝居を観たので、まだまだ飲みたくて、私の仕事場まで行って、朝六時頃まで飲んでしまった。

 畜生!頑張るぞ!と思った。だが、まだまだ道のりは遠い。
 

     渡辺えり子
 

 

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2004/06/19(土)
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朝八時半起床。45分に加藤記生が迎えに来る。土屋君が車で東京駅まで送ってくれる。

10時13分の「のぞみ」で新大阪へ。日本ペンクラブ主催の講演「非戦の心」。

大阪梅田のヘップホールで、14時から16時まで、その後サイン会を行う。
 

大学に通わなければならない太郎君に代わって、劇団の制作として付いてきてくれた加藤だが、

肝心なことの受け渡しができていなかったので、新幹線の行き帰りとも叱り続けて、非常に疲れた。
 

講演には、大阪公演や、OMS戯曲賞でお世話になっている、小堀純さん、元OMSの吉田さん、

アグリーダックリングの劇作家と演出家もいらして下さった。本当に義理堅く熱い方々である。

山形西高の演劇クラブの後輩だった方や、300のファンだった方など。

ペンクラブのスタッフの方たちも、いい意味でおせっかいで、不慣れな加藤を随分とフォローしてくださった。

お客様の質問も真剣で、寝不足の私もつい興奮する、濃い会場であった。

「今の日本はおかしい。私もできることをやりたいが、何をしたらいいのか分からない、どうしたらいいのでしょう。」

と若い女性に声を掛けられた。

「戦争に協力しようとしている政治家には投票しない、ということから始めるのはどうでしょう。」と私は答えた。

会場で大学生が質問した。「芸術と平和への思いというのは一番遠い関係のような気がするのですが、

どういう繋がりがあるのですか?うちの大学の理事長は関係が深いと言うのですが、そうは思えないのです。」

私は一時間半の講演の後のこの質問に唖然としてしまったが、

ピカソのゲルニカ、ダリやルノワール、クールベなどの絵画を例にたとえ、

自由な発想のもととなる人間個人の感性とその広がり、平和を祈る心などを説明したつもりである。

しかし、学生は納得できないでいる。平和という概念を捉えられないほど、平和の中にいる日本の学生に、

どうやって平和への思いを伝えたら良いのか?

幼い頃から絨毯をただ織り続けなければならない子供たちのこと。

戦争のない時間を知らない子供たちのこと。

日本の今の私たちのように、苦もなく食事のできる平和な人々は全世界の10パーセントに過ぎないことなどを説明する。

非戦を訴える前に、若い人たちの心を開き、想像の翼を広げる工夫をしていかなければ、

コミュニケーションそのものがなりたたないのではないかと、改めて考えさせられた。

この質問を胸に置き、焦らず、語り続け、書き続けようと考える。

あまりカッカしないで、体もスリムにしなければと思う。

押し付けるのではなく、考えてもらう。これが肝心だろう。
      

   

           渡辺えり子

 

 

 

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2004/06/18(金)
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 フランスから帰って来た。濃厚で興味深い旅になった。

11日から一週間の仕事だが、一ヶ月くらい日本をはなれていたように思うほどである。

今は明けて19日の午前2時だが、フランスは午後7時なので、まだ眠る気がしない。
 

 明日は早朝に起きて、大阪で講演なので、この一週間の日記は改めて書くことにするが、

アルベールビルから車で一時間ほど行った小さな村は本当に素晴らしかった。

絶対もう一度、今度は仕事抜きでゆっくりと滞在してみたいものだ。詳しくはフランス日記にまとめてみたい。
 

昨日の午後11時半発のエールフランスのビジネスクラスで帰って来た。

12時間は機内で18日今日の午後六時頃成田に到着。機内の椅子が高すぎて、床に足が届かず、

ふくらはぎに血が溜まった感じである。乗務員に手振りで、何とかならないか聞いてみたが、どうしようもないとのこと。

やはりフランス人に合わせてあるのだろう。日本人の中年は足が短い。フランス人は特に膝から下が長いようである。

この話は、16日に観た舞台「テーブルの下の冬」の話の時に詳しく書きたい。
 

 隣の席が空席だったので、食事の時に困った。いつも、食事の種類を聞かれて選ぶ時に、

隣の人の選んだものを見て、おいしそうなら、隣の人のを指差し、

そうでなかったら、違う方を身振りで伝えることができたからである。
 

どうも、機内で、英語やフランス語を喋るのが恥ずかしい。なんでだろう?

山形から上京してきた時、東京弁を喋るのが、ひどく恥ずかしかった。その感覚に似ている。
 

 空港に土屋君が迎えに来てくれた。マネージャーの新目さんを送って、土屋君と蕎麦屋に入る。

笊そばが食べたくてしかたなかった。閉店しようと暖簾を入れようとしていた蕎麦屋さんが、

私の必死の形相を見て、開けてくれた。天ざるを食べた。ほんとにうまかった。蕎麦湯もこんなにうまいものか。

スーパーオオゼキで食材を買って帰る。日本のスーパーが懐かしかった。
 

 愛子と笑子と夢彦に心底会いたかった。夢彦は通りまで迎えに来てくれた。

愛子はうなり声を上げて大いに喜んでくれた。

 パソコンを開いたら、大量のメール。非戦の会のものがほとんどである。

また、東京の生活が戻ってきた。夢から醒めてしまったような感覚である。


 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/10(木)
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 午前7時半入り。ダンサーと私と佐野さんが同時に踊り、犬も参加するという複雑なシーン。

振りもタイミングがかなり難しい。監督の狙いはわかるが、

本来なら一週間は稽古すべきシーンであるが、15分ほどの稽古でやってしまう。

「これは踊ったことのない役者にはできないよねえ」と佐野さん。状況劇場時代を思い出したらしい。

撮影の合間に思い出話をふたりで語り合う。
 

 今の若い人たちの話も、やはりする。全体を考える人がいなくなったという話など。

佐野さんは現場で怒ったことがないらしい。いつもストレスが溜まってしまい、

三ヶ月に一度、三時間くらい友人に話して吐き出すという。

私のように、すぐにその場で注意してしまう人とどっちが楽か?などの話。

「自分は粘着質だから」と佐野さん。小学校の時に権威主義的で大嫌いだった先生を今でも憎んでいるとのこと。

「時間が経てば懐かしいなんてのは嘘だ」と言っていた。
 

 午後五時半撮影終了。記念写真を撮り、花束をいただく。ヘアーメークさんと分かれの握手。

まだ、歌の吹き込みが残っている。 しかし、体が筋肉痛でパンパンである。ハードな撮影だった。
 

仕事場から資料の本などを持ってきて、午後8時頃帰宅。

フランス行きの準備と、週間文春「わたしのお気に入り」の原稿を書く。太田さん図書館で借りてくれた本を取りにくる。

田辺さん、試演会の台本「オールドリフレイン」の打ち直したものを持ってきてくれる。

フランスで私がキャスティングをするためである。
 

 ずっと寝ていない日が続いているが、なんとか持っている。まだフランス行きの支度ができていない。

あっという間に午前五時である。午前八時成田に出発だというのに。お風呂に入るべきかいなか?

ああ!明日はフランスである。

 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/09(水)
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 小雨の合間をぬっての撮影。佐野さんは風邪だったようで、今日は元気になっていた。ホッとする。

 しかし、撮影予備日だった10日も撮影することになった。休みなくフランスに行くのはつらいなあと思う。

 午後演出部の太田さんが見学にくる。とてつもなく広い公園なので、迷って遅くなったらしい。

愛子と笑子も連れてきたら喜ぶだろう。ドックランもある、犬の散歩に適した公園である。

 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/08(火)
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 国立昭和記念公園での撮影。8時半入りと予定より一時間、入りが遅くなった。

メークをして、鬘をかぶったら、監督のイメージどおり、野村佐知代さんのようになった。

衣装のワンピースも昨日と全然変わって、ソフィアローレンのワンピースのように素晴らしくなつていた。

スタイリストも、ヘアメークさんもここのチームは時間がなかったのに頑張ってくれる。
 

 久しぶりに佐野史郎さんに会う。状況劇場の頃から良く飲んだりしていたが、初共演である。

同い年なので話す話は山ほどある。

可愛い犬たちが沢山いて嬉しくなる。

しょっぱなから一番激しい踊りである。踊り終えた後、突然佐野さんが倒れてしまう。

 脂汗までかいている。医者に行った方がいいとスタッフに伝える。

佐野さんが早退して、私だけで撮れるところを撮って、早めの五時に撮影が終わる。
 

マネージャーの新目さんと原宿へ。COBAさんのライブへ。友人代表で舞台に上がる約束をしていたのである。

撮影が早く終わったので、初めから聴くことができた。

 最初の曲から魅了された。コバさんはやはり詩人であると思う。

自分で摘んだというハーブを会場に飾り匂いに乗せて演奏したり、

ミントガムを配って、一曲演奏する間にお客に噛んで貰ったりと、コバさんならではの演出もあった。
 

 最初のゲストは若村麻由美さんで、「白い巨塔」が何かの賞のグランプリを取ったということで受賞式から駆けつけていた。

赤いドレスを着た美しい姿でとても細い。この後に自分が舞台に上がるのか・・・。
 

 いつ呼ばれるのかとやはり緊張する。後半で名前を呼ばれ舞台に上がったのはいいが、

強いライトを浴びて、いつもより余計に緊張する。

来年10月コバさんに宇宙堂の音楽をやっていただく話や、コバさんのアコーディオンに魅かれた訳などを話す。
 

 私も太っていて、コバさんもちょっと太めである。

若村さんはやはり太っている人が好きなのか?なんて冗談を言いたかったが、やめた。

最後の曲、「迷走地図」の演奏も良かった。コバさんのアコーディオンの話はまた詳しく書いてみたい。

 三人で楽屋に行き、若村さんがご自分のホームページに載せるという記念写真を撮る。

私の写真の下に「少女の心を持つ、美人女優の渡辺えり子」と書いてくれるそうである。

 午後11時立川のホテルにもどる。
 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/07(月)
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 午前9時起床、太郎君の運転で江古田の日本大学芸術学部に行き、演劇科の特別講師の仕事をする。

劇団員も10人ほど聞きにきた。

前に紀伊国屋ホールで働いていた柳さんがここで講師をしているので、前からたのまれていたのである。

柳さんにはお世話になったのですぐに引き受けさせていただいた。

学生さんは「アオイバラ」も観てくれていて、役者、演出、劇作家志望の人たちだという。

今日は、自分が演劇を始めたきっかけの話や古里のこと、家族の話、自分の若い頃の生活の話など。

もっと芝居の話をしたかったが、時間がきてしまった。

山形の講演はお客さんのテンションが高く、大いに盛り上がったため、学生たちがやけにおとなしく思えた。

マイクがなくて、空調の音がうるさかようで、空調を切ったら、声がちゃんと届いて、こちらも話しやすくなった。

今朝は6時まで起きていたので、ふらふらだったが、必死に頑張った。柳さんに弁当をいただき、三万円の謝礼もいただいた。
 

 帰宅して稽古場で映画とフジテレビのCMの二本の衣装合わせ。

 フジテレビの方はハイジになる前の司書のスーツの衣装合わせだが、

監督のイメージとはちがったため、別のものを探すことになった。

当日フランスで合わせるしかなくなった。

 映画の方も、打ち合わせの時のイメージと違ったため、明日の撮影まで作り直してもらうことになった。

 撮影のための準備をし、明日歌う歌をCDを聞きながら、踊りはビデオをみながら何度も練習する。寝不足でふらふら。
 

午後8時立川へと出発。運転は吉田君。ドンキホーテで、持ち歩き用のCDプレーヤーとヘッドホン。

小さいスピーカー、ドライヤーなどを買う。ホテルで練習するためである。
 

 10時ごろ立川のホテルに着くが、寝ようとしたら、テレビのニュースで佐世保の殺された小学生の父親の手記の朗読をやっていて、

気の毒すぎて眠れなくなる。「これからは、家の手伝いをしなくていいよ。アイスクリームもいっぱい食べていいよ」というところで

泣けて泣けてしかたがなかった。奥さんも亡くなっていて、男手ひとつで育てていた子供だったのだ。

どうしてこの子がころされなくてはならなかったのだろう?
 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/06(日)
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 夕方東京駅に着くが、渋滞で車が進まず、二時間かかって、八時頃、自宅稽古場に着く。

午後七時から劇団の会議の予定だったのだ。

 試演会のこと、来年の二本の公演のこと、各係りの相談などなど、話し合う内容は山ほどある。

結局、夜中の12時まで話し合い、その後、豚シャブの鍋を囲んでの飲み会になった。

前から劇団員だけで飲もうということになっていて、飲み会のチーフまで決めていたのだが、

重い会議の後ではあまり盛り上がらず、時間もかけられないという結果になった。

私も寝不足続きで、酒などあまり飲めないし、明日も仕事が入っているのだった。

いつになったら、劇団員とゆっくり芝居の話ができるのか・・・。

 ま、新作の構想を話せただけでも、今回は良しとしよう。まだまだ新人ばかりの劇団である。

連携の悪さも、おとなしさもまだ芝居に不慣れなせいだ、と考えて、あせらずじっくりとやって行こう。

 しかし、私か二階に上がった後で、会議では出ないような大声が聞こえ、大笑いしてはしゃぐ声が聞こえてくるのはどうしてだろう?

私は学校の先生か?

これじゃ、合宿稽古はまだまだ当分先になりそうである。
 

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/05(土)
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 30分ほど寝て朝8時起床。新幹線で山形へ。寝てないのに、今日は一日で三本の講演だ。

制作部の藤澤太郎と木村絵里が一緒に行く。物販があるため、三箇所をスムーズに移動するためには、

二人必要と藤澤が判断したためである。
 

一本目は「憲法を守る会」主催の平和講演。午後2時から3時半まで。

皆さん熱心で、質問にも今の日本に対して危機感を持つ山形人の熱さを感じた。

「山形人は元来おとなしいと言われ、思ったことをなかなか口にできない人が多い。

えりこさんはとても山形人には思えないほど元気だ」とも言われてしまった。

今日は寝不足で元気ではなかったが、お客さんには元気に見えるらしい。

私は喋っているうちに、どんどん元気になってくる性質である。

言いたいこと、言わなくてはならないと思うことを訴えているうちに興奮してくる。

それをお客様が支えてくださる。戦争を止めたい。それが必死の願いだからである。

坂手さんからメールでいただいた、ファルージャの日記を朗読した。四月十一日の日記である。

練習する時間がなかったが、みんなじっと耳を傾けてくださった。
 

 高畠町の役所の方が迎えに来てくださり、50分かけて、高畠町へ。浜田広助会館へ。

地元の木を使って建てたという、円形の会館は温かみがあって、

ホッとする芝居小屋のような会館であった。町長さんはじめ、有機栽培の農家の方や肉屋さんなど、

会場は満杯で、家族的な雰囲気。ここも皆さん熱心に聴いてくださる。

演題は「童話と私」幼い頃から影響を受けた童話や、浜田広助を再読して新たに感じたことなどを話す。

山形の自然と農業問題。介護の話、都市と農村の話など。

皆さん、泣いたり、頷いたりしてくださるので、私もつい乗ってしまい、時間を延長してしまう。

夕方5時から7時まで話してしまった。浜田広助の話はいつかまた詳しく書きたい。

ここでも命のたいせつさを強調する。高畠町の景色が好きになった。今度、劇団で合宿してみたい。


役所の方が次の講演先まで送ってくださる。

 蔵王成沢近くの私立第9中学校である。45分で到着。校長先生や父兄と打ち合わせ。

弟が勤める学校の母親塾が主催である。全校生徒350人の父兄がお客である。

高校の演劇クラブの仲間にも父兄がいて、久しぶりに会う。体育館に400人以上の父兄が座っていた。

豪華な花束をいただく。司会も母親たち。弟が照れながら講師紹介をする。

パソコンを使って、スクリーンに映写するというなかなか凝った紹介。

10分で私の演劇の歴史が分かるようになっている。

思わず「なるほどねえ」と呟いて、大いに受けてしまった。

 八時から会が始まり、終了は九時四十分。

こんな夜遅くから始めたのに、最後まで熱心に聞いてくださった。

中味は子供の教育の話であるが、若い劇団員の話などや夫の話。佐世保の小学生の話。非戦の話。

そして学校の思い出と学校のあり方、親子の関係など、普段思っていることを話す。
 

 弟の車で、夜10時15分に実家に帰宅。母の手料理で父の誕生会をやる。

父の誕生日は六月七日だが、みんな揃うのでこの日にやろうと前々から予定していたのだ。

しかし、腹が減った。昼に弁当を食べたきりで、移動の間、バナナで我慢していたのだった。

父は三つの講演のすべてを聴いてくれた。一緒に一日行動してくれたのだ。

そして、何より、父が喜んでくれたのが嬉しかった。

本当に疲れたが、聴いてくれる人が喜んでくれると疲れも消えてしまうのだった。
 

 午前2時から太郎、木村と制作会議。

早く寝たいとつくづく思うが、話がなかなか進まず、いい加減切れそうになる。

 

      渡辺えり子

 

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004/06/04(金)
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 徹夜で資料の日活映画のビデオを三本観て、午前11時半から約30分だけ寝て、非戦の会の会議に向う。

土屋君が迎えに来てくれる。宇宙堂からは私と土屋、多賀が参加。

先日の五月五日の反省会も含め、今後の企画、

今年10月にタイニーアリスが招聘するイラクの劇団の支援のことなどを話す。

バグダットで戦火から劇場を守るため銃で応戦したというイラクの劇団である。

梅ヶ丘BOXで午後1時から5時まで。
 

 イラクの劇団員の宿泊のこと。予算が少なく困っているということで、うちの稽古場の提供を申し出る。

もしかすると、11月の一ヶ月、20人のイラクの役者たちが、私と夫と共同生活するかもしれない。

勿論、向こうの方が良かったら、ということである。うちには犬がいるので嫌かも知れない。

イスラム教では犬は邪悪で汚らわしいとされる。

だから、米兵は収容所で犬をけしかけ、イラク人を虐待したのであった。
 

 六時にもどり、明日の山形の仕事の確認。山形で三つの講演がある。

平和講演と、父の教え子だった方が、今、浜田広助会館の館長をなさっている関係で、

依頼を受けた童話の話。そして、弟の勤める中学校の父兄会のための講演である。

三つ重なってしまったのは、なかなか山形に行く機会がないため、

最初の平和講演のついでに、ということになってしまったのである。
 

 近頃ボーっとしている太郎君を叱りながら段取りする。

東京新聞の最終回をやっと書き上げる。今、午前四時。これから風呂に入って、朝八時起床である。

明日の洋服などを探さねばならない。女は面倒である。この歳になると化粧もしなければならない。

男は楽だ。髪を梳かしてスーツを着るだけでよいのだもの。ま、髭剃りがない分楽な点もあるが。
 

 小学生は友人の首にカッターをあて、実際に血が噴出して始めて、

この殺人が空想ではなく、現実なのだと認識したのだろうか?

恐ろしいが、現代は空想と現実の境をはっきりと認識できるような訓練の場が

少なくなってきていることは確かであろう。メールは簡潔すぎる言葉の応酬である。

心の具合を、相手が納得できるような繊細な言葉で確認し合うことができにくい。

みんな言葉を費やすことを面倒臭がっている。
 

 いけないことはいけないのだと、まず、大人たちが、言葉と行動でしめさねばなるまい。

正義のない政治の中で、想像力の消えた大人たちの中で、私たちは頑張らねばならない。
 

        渡辺えり子
 

 

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2004/06/03(木)
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 明日締め切りの脚本、進まない。こんなことは始めてである。

色んなことに縛られすぎて、自由になれない。自分が真面目すぎるのが原因かも知れない。

監督の意見を聞きすぎているためだろう。もっと乱暴になりたい。
 

 劇団の藤澤君が迎えに来てくれて、六本木のツヅキスタジオで、

映画「いぬのえいが」の打ち合わせ兼、キー合わせ、兼、振り付けと衣装合わせがあった。

オムニバスの映画だが、私と佐野史郎さんが二人で歌って踊るのである。

久しぶりに体を動かして楽しかったが、佐野さんは恥ずかしそうだった。

ぎっくり腰が治って本当に良かった。
 

 「Shall We ダンス?」の時もそうだったが、男優は踊りを踊るのを異常に恥ずかしがるものである。

特に洋舞が恥ずかしいらしい。もともと日本人の遺伝子には組み込まれていないためか、

養成所の頃に、体にぴったりしたタイツを履かせられて、無理やり踊らされたトラウマのせいか。

 それに比べて、女優には踊り好きが多い。子供の頃のバレーブームや、

宝塚のレビューにあこがれたりした経験があるためか。

私も、生まれて始めてみた映画がモイラ・シアラーの「赤い靴」だったので、

子供の頃からバレリーナにあこがれていた。

生まれた場所が山形の辺鄙な所だったので、

バス酔いがひどくてレッスンに通えなかったのが今でも残念である。

 五歳くらいからバレーを習っていたら、森下洋子さんみたいになれた気がする。なんてね。
 

 午後六時より、例のフジテレビの衣装合わせ。可愛い「ハイジ」の衣装である。

このまま街を歩きたいくらいの可愛い衣装である。スタッフ全員に止められたが・・・。
 

独身の図書館の司書が貯金を貯めて、スイスに行き、

あこがれのハイジの衣装ではしゃぐという設定らしい。

この衣装、舞台でも使いたいと思うほど、なんだか私に似合っている。そう思うのは自分だけだろうか?
 

 夜10時帰宅。また徹夜である。
 

     渡辺えり子
 

 

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2004/06/02(水)
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 久しぶりに導眠剤を飲んで寝たら、うっかり仕事に遅刻しそうになった。

目覚まし時計を自分で止めて、また寝てしまったようだ。

運転の吉田君のチャイムで起きた。

東宝コスチュームでの衣装合わせ。「蝉しぐれ」という映画にワンシーンだけ出演する。

中年になってもまだ活躍しているという、娼婦の役である。「真室川音頭」を陽気に歌う役である。

七月に山形でロケがある。「真室川音頭」は私が監督にどうか?と言ったら、即決した歌である。

脚本家の黒土三男さんが脚本監督である。
 

 鬘が地味過ぎるということで、色々と案を出す。

黒船はまだ来ていない頃の話だが、私が、オランダとは国交があったので、

長崎の娼館にいた娼婦のような和洋折衷の髪型はどうだろう?と案を出したら、

監督が乗ってきて、そんな風に決まった。
 

 午後四時、ファザーズコーポレーションの11階の会議室で、フジテレビのCMの打ち合わせ。

今からちょうど20年前、とんねるずと、やはり、フジテレビのCMをやった。

なんだかあっという間だが、またやるというのは何かの縁である。

プロデューサーが東京新聞を読んで決めたというから、何がどう繋がるか判らないものだ。

「ハイジ」の扮装をして、スイス寄りのフランスまで出かけて撮影をするという、贅沢な企画である。

山奥なので遊ぶという訳にはいかないが、アルプスを眺めながら、静かに読書ができそうである。


 午後六時半 「せりふの時代」のインタビュー。今回のゲストは久世星佳さん。

元宝塚のスターであるが、真面目で勉強熱心な方である。自然体の魅力を感じた。


 九月に青山円形劇場で上演する「ママが私に言ったこと」のチラシができた。

木内みどり、大竹しのぶ、富田靖子と私の四人芝居である。

こどもの城でやるのにふさわしいような、クレヨンで文字が描かれた可愛いチラシであった。

 とにかく脚本を書かねば。

       渡辺えり子
 

 

 

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2004/06/01(火)
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 東京新聞のコラムの最終回の締め切りが四日なので、徹夜で新聞を読んだ。

気になる記事に赤鉛筆で記しを付けていき、後でいくつか選んでまとめていくのだ。

大変な作業ではあったが、もう最後だと思うと、寂しい気もする。
 

イラク戦争が始まって、もう一年以上経つのである。

思えば、私がこうしてパソコンが出来るようになったのも、イラク戦争があったからだ。

それまでは手書き以外考えられなかった。言葉の選び方も微妙に違ってくる気がして、

パソコンなど一生使わないと、思っていた。

 それが、「非戦の演劇人会」で戦争を止める為の、非戦のリーディングをやることになり、

一刻を争うということで、深夜のメールのやり取りが必要となった。

当時台本を作っていた、劇作家の斉藤憐さんに

「厚い台本のやり取りをいちいちFAXでやっている時間がない。メールができるようにならないものか?」

と切羽詰った表情で言われた。

 考えている暇もなく、パソコンを買い、かな入力でゆっくりと一文字ずつ打っていった。

それが、毎日の慌しいやり取りをしているうちに、早く打てるようになり、

二ヶ月ほどで、自分の締め切り原稿までパソコンで書くようになってしまったのである。

 最初に書いたのが、この東京新聞の原稿だったと思う。

人間切羽詰ると苦手なものもできるようになってしまう。

戦争を止めよう、と思う心が、パソコンでの仕事に繋がったのだ。

インターネットで調べ物が出来るというのも便利である。

ただ、この日記もどなたが読んでいるのかわからない、という不安もある。

さっき、この日記を読んで下さった方から、映画の脚本の参考になればと、

中国で2003年に撮られた、閉館になる映画館を描いた映画を紹介したメールをいただいた。感謝である。

こういう親切な方ばかりが読んで下さっていると思うと、勇気が出る。ありがとうございました。


 しかし、愚痴ばかりかいているような変な日記であることは間違いない。

六月になったのだから、テーマを決めた、面白い日記にしたいものである。

 しかし、今日は朝から具合が悪い。疲れが溜まりすぎて、仕事も進まないのだ。
 

午後一時、新しい机が届く。大木を一本のまま縦に切った、前から欲しかった机で、

本当はこの机で「アオイバラ」を書きたかった。しかし、加工の都合で一ヶ月ほどかかってしまい、

机ができても、私が忙しかったりして、今日になったのである。

今日は劇団員は毬谷友子さんが好意でやって下さるワークショップに参加するため、

土屋君が家具の移動を手伝ってくれるはずだったが、一時を過ぎてもやってこない。

右手の怪我が治らないので、重いものを持つのはつらいが、仕方がない。ひとりで色々と移動する。
 

 ワークショップが終わって、毬谷さんをお宅に送るついでに、

車で奥山君と吉田君に仕事場に寄ってもらい、腰と手の治療に送ってもらう。

 土屋君は完全に忘れていたようだ。・・・・・仕方がない。頼んだのは二週間前。

昨日確認すれば良かった。ひどく疲れる。横になりたい。脚本ちょっとだけ書く。

しかし、ひとつ直すと、またひとつと、連鎖して行く。
 

 小野武彦さんから資料の本届く。夜、土屋君が持ってきてくれる。
 

    渡辺えり子
 

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