2005/6/13(月)
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「ミザリー」公演は亀有で始まり、横浜、筑波、甲府、三島、静岡と続いて、
14日からいよいよ東京公演である。劇場は千五百人の小屋から三百人の小屋までという多様さで、
本番の二時間前に入って、反響や、裏の仕組み、トイレの位置などを毎回念入りにチェックしなければならない。
早替えが多いので、少しのミスも許されないのである。
お客様はどの劇場でも熱心に食い入るように観てくださっている。
良く笑ってくださり、真剣な場面は、水を打ったように静かになる。大入りのお客様に心から感謝である。
私は本当は怖いドラマが苦手で、今流行りの恐怖映画も一本も観たことがない。
予告編を観ただけでも縮み上がり、夜も眠れなくなってしまうからである。
元来、非常な怖がりで、お化け屋敷に友人と入った時も、
泣き叫んで、友人のTシャツをぐじゃぐじゃに引っ張って伸ばしてしまい、弁償したくらいである。
今回、足を切る場面は本当に嫌だった。
作り物とは言え、稽古場で初めて斧で足を切る時は吐きそうになったくらいである。
本番では斧を振り上げた時に暗転になるので、なるべく作り物の足に斧が当たらないように工夫している。
二人芝居なので、舞台上の工夫は二人でしなければならず、
小日向さんは切られて悲鳴を上げながら、自分で作り物の足を切って折り曲げているのである。
それを考えると笑いそうになるが、今回は何があっても噴き出さないよう気をつけている。
ふたりとも舞台上で色々とやらなければならない段取りが多いので、気を抜く暇はなく、
何回やっても飽きるということがない。たぶん慣れた頃に千秋楽になるのだろうと思う。
私の演じるアニーという女性はやはり悲しい女性だと思う。
子供の頃、火事で家族の全員を亡くし、引き取られた養父には虐待され、愛情を知らずに育ってきた。
自分も愛する人にどうやって接したらいいのか良く分からないでいる。
しかし、人は人にして貰ったことで学習し、その体験から生きる術を学んで行くものであろう。
アニーの行動を見ると、彼女の不幸が分かってくるのである。
今回の戯曲は原作とも映画とも違っている。
作者が、少数派の痛みの部分をていねいに描き、
彼女を狂わせてしまった原因のひとつに現代社会の欺瞞があるのではないか?と問うているのである。
彼女の孤独と作家ポールの孤独が重なり合うところが見所になっているように思えるのである。
どちらが加害者で被害者なのか?すべてにおいて奥が深い戯曲であると思う。
アニーが気分が滅入った時に行く、丘の上の「笑いの場所」は
アメリカの人気童話「リーマスじいやの物語」の中のエピソードから取ったものである。
かしこいうさぎが、きつねを騙して連れて行った「笑いの場所」はそこに出かけたきつねが笑う場所ではなく、
生い茂った茨で怪我をしたり、蜂に刺されたりしてひどい目に合い苦しむきつねを見て、うさぎが笑う場所であった。
「笑いの場所」に出かけたからといって、アニーはそこで笑うのではない。
自分で自分を傷つけ、傷付いた自分を笑う場所である。
たったひとりの孤独なアニーは、鬱状態になると、うさぎときつねの二役を自分で演じる場所に行くのである。
なんて寂しい行為であろう。
隣の家まで何マイルも離れている、辺鄙な場所の一軒家にたったひとりで暮らし続けるアニー。
純粋すぎて、感じやすいために、テレビもドラマやニュースなどは見られず、
ショッピングの番組しか観られない。たったひとつの楽しみはポールの書いた小説「ミザリー」だけ。
ミザリーは「悲惨」という意味で、元来人の名前にはつけない言葉である。
悲惨な人生を生きてきたアニーは自分より悲惨な運命に立ち向かう「ミザリー」の物語を読むことで、
どうにか生きてこられたのだった。理解者も友達もなく、周りにキチガイ扱いされながら孤立し、
病気に苦しむアニーは、現代の闇の部分の暗喩のように思えて仕方がない。
東京は一日二回公演が多い。体調を整えて挑みたい。声を大事にしたい。当分禁酒である。
渡辺えり子
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